ありえないコードで弾いています

日々の暮らしのエッセイだったりそうでなかったり

「近頃の若い者は」の逆バージョン

Xに流れて来たので知ったのですが、NANA好きな人まじで理解できない全員貞操観念バグってるじゃんみたいなポスト。

私はNANA世代じゃないんだけど当然知ってるし、友達ですごく好きだった子いるので、このポストは嫌な気分だった。

今の価値観で見ればそうなんだっていうのは分かる。でも時代が違うんだよね。あの当時はこれが許容されてた。それを今の価値観で断罪してくれなくていいよって感じ。

あの時代、NANAを夢中になって読んで楽しんだ人たちがいた。いろんなものから救われた人もいると思う。それをあなたが否定する権利ないでしょ。

これって、年寄りがすぐ「近頃の若いもんは」って言いたがるのと構造的には同じ。自分の価値観を離れてものごとを眺めるっていうことができない人が陥る罠だと思う。

自分がのめり込んで好きになった作品ならまた違うんだけどね。友達が好きだったというのがミソかもしんない。悪く言われると無性に腹がたつ。自分だったらもっと笑って流せたのかもしれないけど。

今だから言ってみる、あの当時思っていたこと

2021年9月から11月にかけての話をします。何のことか分からない方はスルーお願いします。

改めて見るともうほぼ5年前なんですね。月日の流れるのは早いなあ。

 

あの件については私は誰も責めるつもりないし、それは心の底からそうなのです。あえていえば週刊誌を責めたい。あいつらに配慮する必要はないと思ってます。家族を養わないといけないのかもしれないけど、マジでそんなん知らんねん。

 

今のご時世こういうこと言うと生命の危機すら覚えるけど、私はF倫経験者です。もうずっと昔のことですが。だからそもそも、Uさんの件に関しては責める資格もないです。

 

ちょっと自分の話をすると、F倫してる当時、私も自分のやってることを何とか正当化できないか七転八倒してたことはある。色々と留保事項はあったので。自分のせいじゃない、もしくは自分のせい「だけ」じゃない、みたいなね。

でも、当たり前だけど、どうやっても正当化なんて無理だった。F倫なんて徹頭徹尾間違っている。私は罪人になったようでひたすら心が重かった。姦通罪が存在していたら、ほんとに有罪になっててもおかしくない。私が生きる時代にそれが無くてよかったね、と思えただろうか? 思えるわけはないよね。

その関係はやがて終わったけど、相手の家庭は壊れた。そして私はその後ずっと自分を責めながら生きてきた。10年はそうしていたと思う。表面的には人と変わらぬ生活を送りながらも、自分は一線を超えたという感覚はずっとあった、つまり、善人と悪人との間に線が引かれているならば、それを跨いだ意識は明確にあった。

そして一度それを跨いだら、もう元の世界には戻れない。

私は今でもその感覚と共に生きている。ただし、ちょうど10年を境に、自分を責めることはやめた。

10年だから、とか思ったわけでもない。いつまでも自分を責めてるだけなんて、なんかナルシシスティックじゃない、と自分の中のもう一人の自分が言い始めて、気づいたらそれがちょうど10年だった。

その延長線上に今の自分がいる。

今の自分の状態を説明するのは難しい。悪人側だという自覚はある。でも自分を責めてはいない。でも開き直っているというのとも少し違う。私は開き直ってはいない。

そういう自分にとって、あの報道を契機に起きたSNSの炎上は、それはもう、ただ恐ろしかった。自分が非難されているように感じたので。

かといってUさんに「私も一緒です」みたいなことを伝えようとは思わなかった。悪人同士で繋がってちょっと安心しようとするんだとしたら、それは甘いと思う。悪人たちは各々で責めを負わないといけない。そういう気持ちだったから、私はずっと黙っていた。ただ、どうか心を病んだり、生きることを辞めてしまったりしませんように、とはずっと思っていた。

私はバンドが好きなので。あのバンドがあのスタイルで活動を続けられなくなることは、絶対に望まなかった。それは、誰に怒られようとも。

 

Uさんのいない3人のライブを見に行った。その時、私はまだUさんが復帰するべきなのかそうでないのか分からなかった。

でも、会場に、紫のライトが揺れているのを見た。心なしか寂しげに、不安げに、それは揺れ続けていた。

その時思った。Uさんは帰ってくるべきだと。

だって、彼女たちを笑顔にできるのはUさんしかいないのだ。たとえUさんが帰ってくることで、笑顔になるファンの数より離れるファンの数の方が多かったとしても、やはりUさんは帰ってくるべきだと思った。どっちかを選ばなきゃならないなら。

あのまま去るほうが、精神的には楽だったと思う。でもUさんはちゃんと帰ってきたし、バンドを昔通りのスタイルでやってくれた。背中に銃撃を受けていてもファンの前では笑顔でいるくらいの覚悟で戻ってきたんだと思ってる。それにはほんとに感謝している。

ただ、復帰して初めてあの件に触れた配信で、ソロで色んなことに手を出してもバンドには貢献しないというような葛藤が爆発してしまってあんなことになった、的な解説をしてたのは、あれは違うと思った。

人が浮気をする時は、そんな高尚な気持ちじゃないよ。文字通り浮わついてるからそういうことになる。浮わついてるから始まって、自分の欲を優先したから続いた。それだけ。それは分かっといたほうがいいと思う、たぶん、分かっていると思うけど。

 

そして時系列的には先だった、Sさんの件。ただ、私はSさんの件は、実際に起きたことがだいぶ水増しされて報道されたんじゃないかという気がしている。それもかなり、Sさんに不利なように。単なる直感だけど、でも、え、それって付き合ってるって言えるのかな?と思ったし、2人の間に現在進行形の恋愛感情があるという気があまりしなかった。だから反論することはいくらでも出来た気がするけど、でもそこで少しでも反論すると、結果的に当該の女性を傷つけることになる。たぶん彼女を傷つけたくなかったのではないかと思う。そこは、圧倒的多数のファンを安心させるよりも、1人の女性を傷つけないことを取ったんだと思うので、ファンに対する裏切りと言えるかもしれない。でもそれがSさんの生き方なんだと思う。

生き方は変えられないのだ、たぶん。頑なだとは思うけど、それが生き方なんだったら。たぶん変えられない。

そしてあのニコ生に至る。

あれは大多数のファンの気持ちを恐ろしく逆撫でしたけれど、私は普通に笑って見ていた。Sさんに関してはやっぱり、報道がかなり盛ってる印象を受けていたし、どちらにせよ真実がファンに分かるわけはなく、そこにこだわってもしょうがないという気持ちもあったので。

ただ、私はSさんに関しては人間として尊敬しているというか、この狂ってる時代を同じように生きているカッコいい仲間(烏滸がましいけど)のような感じで捉えてるから笑えたのかもしれない。友達の失敗を見ているくらいの感覚だったのかも。これが推しだったらやっぱり見てられなかったかもしれないな。

高倉やえ『建て替え』(ネタバレあり)

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この本の著者の方を存じ上げています。今日、著者の方に読んだ感想を直接申し上げる機会があり、お伝えして来たのですが、帰り道、「言いたいことはもうちょっと違ってたな」という一人反省会が始まり、どうしても自分がこの本を読んで感じたことをもっとちゃんと書きたくなりました。

最初にどうでも良いことから書いておきたいのですが、上にリンクを貼り付けた出版社の紹介文にも、主人公の都のマンションで修繕か建て替えかの意見が割れているように書かれていて、私もすっかりその気で読んでいたのですが、著者の方に「建て替えか修繕かで意見の割れているのは綾子のマンションですよ」と言われてびっくり。読み返したら確かに都ではなく、綾子のマンションだった。出版社なのにそんなミスリードな説明ダメだと思う。恥かいちゃった(自分がちゃんと読んでいないだけ)

この本が出版されるときに著者の方から連絡をわざわざ頂いて、もちろん買います!とお伝えして購入したのですが、いざページを開いてみるとなかなか読むのに苦労しました。

まずこの本の登場人物(全部で250人以上だそうですが)が主人公の都ふくめ概ね上流階級と言って差し支えない人たちで、私と境遇が全然違うこと。本の中では上流階級という言い方を避け、「裕福な庶民」といった書き方になっているのですが、天地に恥じることのない筋金入りの庶民の私から見れば、三越の外商が来たらもう上流階級でしょうと思ってしまいます。

住んでいる場所も違う。地方の僻地出身の私には、出てくる千代田区の地名や通りの名前がまったく身近に感じられない。

世代も違う。都さんと私では40年くらいの差があります。だから都が見て来た風景は私が見て来たものとまったく違う。

上下巻あるのですが、上巻を読んでいるときはしょっちゅう止まっていました。時代も階級も土地もまったく違う私が、この本から何を読み取るべきなんだろう?というのをつくづく考えてしまって。

境遇や世代なんて表面的なもので、根底に流れる普遍的なテーマというものがあるだろうと考えてもみました。

確かに、男女不平等や争いのなくならない世の中に対する怒りが綴られている部分はありました。

男女不平等について言えば、私自身はあまり気にせず生きてきたのです。女性で損をしたことも確かにありますが、女性で得をしたこともある。私がそこから学んだことは、人生はすべて相殺だということでした。だから、都の気持ちにあまり共感できない。

それから、都は体制に批判的で、たびたび日本の政権に対しても苦言を述べているのですが、平民の私が大学を出て社会人となり日々働きながら感じたことは、今ある体制をただ維持するだけでもとんでもなく努力が必要なんだなということでした。だから私は若い頃から、体制側の人たちに対してはただ頑張って、としか思ってこなかった。

だから、都と私は価値観がまったく違うと思います。ただ、価値観が違う人の話だから読めないというわけじゃない。

これで都が自分の主張に固執するタイプだったら、あぁそういう主張の人なんだな、自分とは違うけどこういう考え方もあるよね、というスタンスで読んでいくことはできた。

でも、そうでもない。そうでもないというところが、この本の難しさです。

この本は男女不平等について声高に批判しようとしている本ではありません。それがしたいなら、もっと効果的な書き方がいくらでもあると思います。でも、この本ではすべての主張が抑えたトーンで書いてある。辛辣な表現もありますが、すぐに話題が変わっており、都自身がそこにあまり執着していないように見える。

自分の主張をあくまで貫き通すということには興味がなさそうに見えるのです。

それが一番読みながら迷った部分でした。都と自分の距離感をうまく測ることができない。だから、自分が何を思えばいいのかが分からないのです。

ただ、同時に、この本は絶対に読まなければならないとも思っていました。

上下で1000ページほどもあるこの本を書き上げるには、きっとものすごい体力、集中力、精神力が必要だったはずです。私も文章を書くことは好きだけれど、そんな大作はとても書けない。貴重な人生の時間を傾けて書き上げられたこの本を、著者の方に直接託して頂いたからには、絶対に最後まで読まなければならないと思っていました。

結局、最後まで読むのに1ヶ月くらいかかりました。

その間に不思議なことが起こりました。

途中まで悩みながら読み進めていたのですが、下巻の後半くらいから急に読みやすくなった。文体や雰囲気が変わったわけではないので、ついに都さんにある程度シンクロすることに成功した、という感じでした。

その状態で読んでいったのですが、最後近くになって、都が通訳仲間の友人との語らいの後にこれまでのことを振り返り、過去に想いを馳せるシーンが出て来ます。亡き父と幼い頃林の中を散歩した思い出が甦るのですが、読み手としても現実と非現実、過去と現在が混ざり合うような不思議な感覚に囚われていきます。

そこで都がふと、父に手を引かれた自分のままで消えていけたらよかったと呟く。

その瞬間、読み手にも幼子のあどけない手とそれを引いていた父親の背中が見えるような気がしてくるのです。朝の光がさす林を、朝日に向かって親子は歩いていて、その光にふたりの輪郭がぼやける。父の手があればただただ幸せでいられた時代。

都はこれらを、例によって淡々と述べており、別にこのシーンが他のシーンと特に違って情緒纏綿に描かれているというわけではありません。でも、私はシンクロしていたのでそれが非常に心に迫って、気づいたら泣いていました。

戦争とその直後の貧しい時代を経験し、学生時代は勉学に興味を覚えたけれど卒業したら即結婚、日本中が好景気に沸いた時代に家庭の主婦として限定された暮らしを余儀なくされたけれども、離脱もしないでちゃんと対応できた。子育てが終わってからは仕事を持ち、夫の名前ではなく自分の名前で生きることもできた。夫は理解のある男性で、一緒にいても邪魔にならない存在だった。子供達も自立し、ひ孫までいる。そして裕福。申し分のない人生のようにも見えます。

だけど誰の人生にもやはり思うに任せない部分がある。それは時に男女不平等であり、時に戦争をしたがる人間の性だった。都ひとりの力ではどうにもできないことですが、どうにもできないからと言って振り払うことはできず、結局、ずっと人生について回った。そういうものを飲み込みながら、一日、一日を丁寧に生きていった都という人の押し殺した無念さが、父と歩いた朝の林の風景の中に閉じ込められているような気がしました。その直後に中東の男性との砂に関する会話が挟まれるのですが、砂は悠久の時の流れ、そして思うに任せないものの象徴のようにも感じました。彼はどこで死ぬのだろう、それはひいては自分はどこで死ぬのだろう、という問いにも聞こえました。

都は別に自分の人生を後悔はしていないと思います。それでも人の人生の重みを感じずにいられない。そういう本でした。

このシーンが出てくるのが最後から二番目の章で、これが実質的な最後の章。この話は起承転結というほどのストーリーがありません。日々、都が会う人々のことを綴っている。だから最後の章も、明日また目覚める人がおやすみを言うような気軽さで終わります。

その後、ほんとの最後の章が来ます。これはちょっと毛色が変わって、夫が亡くなった後、若い頃夫と訪れたヨーロッパの国々を娘とともに回るというもの。ちょっとした観光ガイドを読んでいるような気にもなり、本編についてくるおまけのような立ち位置と感じましたが、この章がまたよかった。これは蛇足とかでなくて、絶対にあったほうがよかった章だと思いました。

本編では病気療養中だった夫は、この章の前に亡くなったことになっています。若い頃訪れた場所を再訪していくのですが、昔と同じ場所に立つとかつての夫の言葉がふとよぎる。此岸と彼岸で夫婦の会話が成立している。ロマンチックだと思いました。

本編で夫が出てくる回数は多くありません。出て来ても話の本筋にはほとんど関らず、でも都を否定するようなことは一切言わず、それがまた無理している感じではなく、自然体でそうなっているという、これぞ理想の配偶者と言いたくなるような人でした。空気のような存在という言い方がありますが、空気とはまた違う。お互いに深い信頼があったのだと思います。

この章で夫のことを急にたくさん思い出している印象なのですが、ヨーロッパという千代田区から場所を変えたところで、そして夫が亡くなった後で、そうなるというのはありそうな気がします。そして思い出しても都が悲しそうな顔をしていないということは夫婦の生活が満たされたものだったということだろうし、夫も都も幸せだったのだろうと思えて嬉しかったです。

心配してついてきた娘に都は一貫して冷淡で、帰国後も「今度はひとりで行こう」と思うところで話が終わります。これは、私も旅行は一人で行きたい派なのでよくわかります。目に入るものや人との交流で感じたことを、自分一人でじっくり噛み締めたいのに、誰かがそばにいると思考のじゃまになるのです。じゃまだと思うのも相手に申し訳ないので、だからついて来てほしくないのです。ただ、娘は都のそういう思考回路をあまり理解していないのか、冷たくされて普通にショックを受けているようなのはちょっとかわいそうでした。

シネマ歌舞伎『曽根崎心中』@東劇

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映画『国宝』ですごいダメ出しされてた「しーぬーるー、かーくーごーがー」の曽根崎心中です。

徳兵衛を演じるのが『国宝』にも出演されていた中村鴈治郎さんなので、『国宝』で歌舞伎に興味持った勢に全力でぶつけてきた感ある(笑)

そしてお初を演じるのが坂田藤十郎さん、雁治郎さんのお父さんだそうです。親子で恋人同士を演じるって歌舞伎でしかありえないのでは。

でも映画で言われていた意味、よく分かりました。確かにあの場面は、お初が命を懸けて徳兵衛の気持ちを確かめるとても重要なシーンなんだってよく分かった。そりゃ、通り一遍の気持ちの込め方では表現しきれないよね。

そして軒下にいる徳兵衛に足を差し出して、それを掴ませることで気持ちを確かめるって。

 

エ ッ ッ ッ ッ ッ ッ ッ ッ ロ。

 

近松門左衛門って天才だね。こりゃバイラルヒットするのも納得だわ。

しかも題材となる実際の事件が起きて1か月後にもう上演したって、話題性えぐいな。当代きっての売れっ子ライターみたいなムーブをしている。v(いや実際そうだったんだと思う、そう習った気がする)

お初って19歳って言ってた気がするけど、坂田藤十郎さんの演じるお初は愛らしくて、でも思い込んだら一途で、頭の中にちゃんとうら若きお初出てきたよ。でも藤十郎さん当時80代とかなのかな、それで19歳演じるのもすごい。西洋演劇じゃありえないよね。女性役を男性がやる時点で、いろんなナシがアリに変化して独自の世界が作り出されている。

足を掴ませるシーンも、え、男性のごつい足出したんじゃムード壊れない?と思ったけど、ちゃんと乙女の白くて細い足に脳内変換されたよ。あれ、見せ方も絶対考えてるよね。どこまで見せるか、くるぶしは見せないとかたぶんすごく調整してると思う。そのへんがめちゃめちゃ上手だと思った。

そして私は鴈治郎さんの徳兵衛がとても印象に残りました。お初を見つめる純情で切なげな眼差し、グッとくる。これはシネマ歌舞伎だからこそじっくりと見られる表情だなと思った。

お金返してもらえないのかわいそう。っていうかあの敵役、やることがえげつなくて目剥いたわ。こういうことやるやつ、実際いるのかな~いるんだろうな~嫌だな~~。そして、SNSが存在しない江戸時代でも、間違った情報の流布によって社会的に抹殺される人はいたのだなという苦い確認を。

シネマ歌舞伎ってラフな格好で見に行けるし、表情がアップで見られるし、イヤホンガイドも使えるしで、とっても便利。私みたいな浅いファンはシネマ歌舞伎で十分な気がする。ただ、今回イヤホン忘れちゃって説明聞けなかったけど。説明聞きながら鑑賞するのって、最初は邪道かなと思ったけど、聞いた方が絶対いいです。鑑賞が深くなる。歌舞伎はまあ、なくてもストーリー大体分かるけどね。

私は最初に触れた古典芸能が地元の能楽堂で見た能だったので、とっつきにくさMAXだった。古典芸能はだいたいあれくらい訳の分かんないものだという思い込みがあったし、若い時は歌舞伎も含め、あのスローな台詞の言い回しにイライラしてしまって入り込めなかった。

でもえらいもんで、年齢を重ねてくるとイライラしなくなって、普通に聞けているのが自分でも不思議。

アンドリュー・ワイエス展@東京都美術館

www.tobikan.jp

 

私は学生の頃から文学も絵画もなんとなくヨーロッパのものが好きで、生まれて初めての海外旅行もヨーロッパと決めていて、アメリカは老後に気が向いたらでいいやくらいに思っていたんですが、ここ数年嗜好が変わってきたのだか、アメリカ文学やアメリカの画家が好きになってきました。

文学だとフィッツジェラルドとかポール・オースターとか。画家だとエドワード・ホッパーとかワイエスとか。文学も絵画も同じ時期に興味が移ったというのが面白いんだけども。

というわけでワイエス展です。

ワイエスって、今は学校の美術の教科書には載ってないそうですね。私の世代は載ってたのにな、「クリスティーナの世界」とか「踏みつけられた草」とか。

その当時はワイエスそんな好きじゃなかった。特に「クリスティーナの世界」はなんか怖かった。なんで地面に座り込んでるのこの人、みたいな。この場面の続きが、なんとなく不穏な展開になりそうで。でも今日知ったのですが、この時のクリスティーナってもう40代とか、そのへんだったらしいです。衝撃だわ。華奢な少女だと思ってた。実際はどうあれ、少女として描いたのかもしれないけど(ただ、この絵は今回来ていなくて、MoMAの所有でほとんど貸し出されないらしい)。

上のポスターにもなってる「アンナ・クリスティーナ」。これも同じ人を描いているわけですが、クリスティーナはとにかく痩せている。病気で下半身が不自由だったけど車椅子を拒否して地面を這って歩いていた、という逸話からイメージするような獰猛な生命力みたいなものは全く感じなくて、かげろうみたいに儚い。「クリスティーナの世界」で少女だと思っちゃったのも腰が細かったからなんだけど、よく見ると腕もすごく細いんですよね。栄養失調気味だったのでは、と思ってしまう。

そういう心細い頼りなさと、神経質に描きこまれた雑草との不安定なバランスがワイエスの味だと思う。そして光と影の強いコントラスト。滅びゆく古き良きものへの惜別の情、なんて言い切っちゃうと陳腐になってしまうけれども、でもそんな匂いがする。ワイエスの絵って、人が描かれていなくても、ついさっきまで誰かいたんだろうなっていう温もりを感じる。ワイエス自身は画家デビューとともに売れっ子になったようだし、家も裕福で、奥さんとの生活も平和という申し分ない立場にいながら、どちらかというと質素な生活しているオルソン家や体が不自由なクリスティーナに肩入れして絵を描きまくってるの、下手すると鼻持ちならない作風になりそうだけど、そうなってない。自分という存在をどこかに忘れて、オルソン家と一体化している感じがある。自画像的なものをあまり残していないというのも、なんか繋がるような。

私はワイエスで「海からの風」という絵がすごく好きなんですけど、この絵も来てなかった。ただ習作は数枚来てたので見られました。画家って、一枚の絵を描くのにけっこう習作を何枚も描きますよね、すごいなあ。めんどくさすぎると思ってしまう私は画家に向いてないね。「海からの風」の習作も数枚あったし、「オルソン家の終焉」はそれ自体作品と呼べるのではというくらい描き込んでいる習作もあった。

ワイエスは写実主義ではあるけど、たまに、デパートの包み紙にしたらよさそうな、ちょっとフィクショナルな感じの鳩が描かれたりするの面白い。嘘みたいにキレイに羽を広げているの。このへんは挿絵画家だったというお父さんの影響かなと思ったりもした。

 

あんまりよく分かってなくて、ギャラリートーク的なものに申し込んだと思っていたらホールみたいなとこに集められて聞く講演会でした。今回の展示を企画された方からのお話でしたが、何しろギャラリートークを期待していたのでちょっと思ってたのと違った(当たり前)。でも絵の解説も少しされていて、その部分はとても面白かったです。

その方は「薄氷」をすすめていました。確かにちょっと毛色が違って、写実は写実なんだけど抽象性もあるような、不思議な絵だった。氷の下が死の世界、上が生の世界とすれば、一面の氷から頭だけちょろっと出ている枯葉が二つの世界を繋ぎ止める架け橋のような。それでまた、この枯葉が写真かと思うくらいリアルで触りそうになっちゃった(もちろん触ってはいけません)。ワイエスは時々そういうのある、オルソン家の割れた窓につっこんだシーツとかも立体かなと思っちゃうくらい。それにしても「薄氷」が三井住友銀行の所蔵というのも地味に印象に残ったわ。

劇団朱雀『OMIAKASHI』(ネタバレあり)

「隅田川ヤングロード物語2」以来のサンシャイン劇場。どうでもいいけどGoogle Mapに聞いたら大塚駅から行けって出ちゃうんだけどなんでなん、前そんなことなかったのに(たしか)。なんでなんって思いながらも大塚駅から歩いたら、のんびりした街並みで都電も走ってたりして、下町の風情が意外とよかったです。

劇団朱雀は初めましてでした。SHIRANAMIの頃はまだちゃんとした金爆ファンではなかったので、早乙女太一さんと喜矢武さんの絡みはインスタのスノボ旅行とかでしか見たことなかった。笑

大衆演劇って興味あるのよね、今は他のことで手一杯でおっかける余裕はないけど、でも私は骨の髄まで庶民なので、大衆演劇という娯楽になんとなく前世からの繋がりを感じる(ひたすら嘘っぽい)。

喜矢武さんのおかげでついに体験できることになってありがたや〜です。

で、感想。

いやー楽しかったなー!!もうそれに尽きる。

チケ代が11000円じゃなければもう一回行ったと思う(いえ、チケ代は内容に対して高すぎるとは思っていませんが。世の中のチケ代の上昇スピードに私のお財布がついていけてないだけ)

早乙女友貴さんは紅鬼物語で鬼の役をされてたから、「あら〜栃ノ木元気?」とか友達ライクなノリで見ちゃいました。

太一さんは「あぶない刑事」の映画で見て以来。あの役もよかったな。ふてぶてしい役ぴったりだ(褒めてます)

の、つもりだったのに、途中で太一さんと友貴さんを逆に見てたことに気づき爆死。ニワカすぎる。ほんとにごめんなさい。その程度の認知能力しかない人間の感想です。

 

 

(ATTENTION: 以下、ネタバレを含みます)

 

 

第一部のお芝居の設定、軽業師の一味が裏で泥棒家業、お家乗っ取りを企む家老、陰で捜査を進める隠密、というワックワクの設定で、もう楽しいこれだけで。途中太一さんと友貴さんがルパンと銭形に見えたりして。家老役の浜中文一さん、元ジ○ニーズなのですか!? あんなキワモノ(失礼)な役をノリノリで演じておられて、絶対どこかの劇団出身の方だと思ってた。須賀健太さんは滑舌がすばらしくて、役者の鑑だと思いました。意外とせりふが聞き取りにくい人多いのよ。

喜矢武さんは超真面目な役みたいに聞いていたけど、真面目っていうよりは気弱な中間管理職だった。ちゃんと役になりきるのすごい。この役はそんなに目立つことを求められてないと判断してちょっと主張を減らしているのかなと思った。他の演者さんがアドリブでふざけ始めても、わりと固い表情を崩さなかったので。あんなの、普段の喜矢武さんなら率先してふざけたくなるはずなのに。そういう、全体の中の自分をいつも見てる感じがいいな〜と思います。

第二部のショー、私はこちらが大満足でした! 太一さんの女形がとにかく美しい。ずっと見ていたい。椎名林檎の曲に合わせて花魁姿は正解すぎだよね。踊りも日本舞踊あり、ラップに合わせたブレイクダンス風のものもあり、それが渾然一体となってちゃんと纏まってるのですよ。しびれたわ。兄弟での殺陣のパフォーマンスもめちゃめちゃカッコよかった。MIYAVIさんの曲に合わせるのもセンス良い。これは海外公演すべき、カタナ大好き外国人に絶対ウケると思う。

喜矢武さんも殺陣と大旗振りやってた、小柄だからあんなデカい旗思い切り振ったら飛んでっちゃうんじゃないかと心配したけど(失礼すぎ)堂々たる立ち姿だった。あれ布地は絹かなぁ、質感滑らかでライトにあたるとキラキラきれいで、風を切る音もびゅるるんみたいな独特な音で迫力ありました。殺陣のシーンではダンサーさんたちに両サイド固めてもらって、その真ん中の階段を静かに降りてきて、実になんとも・・・少年剣士ぽかった(そこがいいのです)

喜矢武さんもバク転とかやってくんないかなと思ったけどなー。パルクールでもよかったけど(趣旨違いすぎる)でも「狙いうち」の時にわざわざ喜矢武さんだけ紹介して頂いたりとか、気遣って頂いたのありがたかったな。

自分だけのバースデーイベントで一応Zepp Hanedaいっぱいにできる人が、集団の一人としてバックで踊っている姿は新鮮で、でも心底楽しそうに踊っているので、これは金爆の喜矢武豊ではなく、キャンCanチャンネルの喜矢武豊でもなく、また別の誰かに見えました。でも喜矢武さんを知らない状態でモブの一人で踊ってたとしても、「あ、あの人カッコいい」みたいに見つける自信めっちゃある。なんか光ってるのよ、小柄なのですぐ他のダンサーさんにまぎれちゃって見つけにくいったらありゃしないんだけど、それでも。それは私が166cm〜169cmの低身長イケメン大好きというニッチな性癖持ちだから、だけではない。

喜矢武さんて没我になる瞬間がある。

そういう時ってエゴとか雑念とか何もなくて、つまり自分をカッコよく見せようとか、心が別のことを考えてる、とかは一切なくて、ただ踊る、ただ歌う、ということに完全に集中している。一心不乱というのとも違うんだよな、踊りだったり歌だったりに、自分自身が完全に吸い込まれてる感じ。その渾然一体が光ってるのかもしれない。Shining喜矢武sunなのかもしれない。

それが一般人にはできないことで、常に人の目を気にしたり、余計なこと考えたり、とにかく自分という存在を忘れるってことができないので、喜矢武さんみたいに光れないんだよね。

そういえば座席が前から7列目という良席で、サイドだったけど喜矢武さんが結構来てくれるほうのサイドだったので、近くで見られて幸せでございました。ニコニコしてしもうた。いつも通りで目合わなかったけど。ティッシュ配りにも来てくれたけど、よそ様の現場で「キャンさんティッシュちょうだいーーー!」とか叫ぶのはどうなの? と思っちゃって、アピール控えめにしたら全然投げてもらえませんでした笑 まあ想定内なのでいいです。他のダンサーさんから手渡しでもらったし。

あとね、楽曲でいうと、最後に「Shake Hip」やってくれたのテンション爆上がりだった。恥ずかしながら若い頃慣れ親しんだ楽曲でございまして。「浪漫飛行」より「君がいるだけで」より好きな曲なんだよ。その曲でキャンさん踊ってるの見れて、もうめでたすぎて幸せすぎた。

SNSでも劇団の評価めちゃ高くて、当日券で2回目狙おうかなと思ったりもしたけど、池袋がちょっと遠くて、万一当日券に外れたらダメージでかいと思って諦めた。CSでやるらしいから、そっちに期待する。と言いつつウチCS入らないんだけど、番組によってネットで見られるらしい。頼むよ偉い人。ネットで見られますように。

『オールド・オーク』からの『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ネタバレあり)

ケン・ローチ監督の最新作『オールド・オーク』を見て、ケン・ローチやっぱり好きだなあとしみじみ思ったので、家に帰ってU-NEXTで『わたしは、ダニエル・ブレイク』を見返した。

 

 

(ATTENTION: 以下、両作品のネタバレを含みます)

 

 

『オールド・オーク』もとても良かったんだけど、『わたしは、ダニエル・ブレイク』の方が好きかもしれない。病気で働けず困窮してるダニエルが、行政の求めるがままに実直に対応すればするほど支援から遠のいていくっていう喜悲劇。笑っていいんだか怒るべきなんだか泣くべきなんだか、見てるこっちもだんだん分かんなくなってきちゃう。

子供を育てるために身を落としていくシングル・マザーのケイティが物語のもう一つの軸なんだけど、彼女はとても辛い状況にずっといて、お金を儲ける手段が最終的にそれしかないというところへ追い詰められていくんだけど、一応それなりに順応しているのがよかった。もちろん、悲しさや辛さややる瀬なさや、いろんな負の感情はあると思う。でも変に心を病んではいなくて、ダニエルの付き添いに一緒に行ったりするし、ある種現状を受け入れて生きていこうとしている姿勢が見えたのがよかった。垣間見える強さ、庶民だからこそのしたたかさみたいな。

病まないからストーリーとして詰めが甘いとかは全然思わなくて、ああいう仕事でも、病む人ばっかりじゃないと思う。むしろメンタル病まなかったから好きまである。あそこから病むのは令和じゃ逆にステレオタイプな気もするし。

ラストシーンも、悲しいけど、でもダニエルも最後まで誇りをもったまま行けたと思うので、悲しい中に解放もあった。ケイティが最後の手段に出た時にダニエルがショックでどん底に落ちてしまったので、そこで飢え死にみたいな未来なら絶望だったけど、デイジーが来てくれたから救われて、やっと手当がもらえそうな希望がでてきた時に終わったっていうのはうまい幕引きだったと思う。

『オールド・オーク』も同じように庶民(労働者階級)を丁寧に描いていてリアリティあるし、よそ者が来た時の田舎住み人間の反応も身に覚えがあるものばかりでストーリーに引き込まれたけど、最後がきれいすぎたかもしれない。よそ者側がひたすらに弱い立場で善良、という描き方になってて、ケン・ローチが左派の監督ということを考えればさもありなんというところではあるけど、人間誰しも善良な面とそうでない面はあるはずなので、その両方を描かなかったのはちょっと片手落ちな気はする。

でも最後の祝祭のシーンで連帯の旗を掲げながらも、どこか嬉しそうじゃなく、不安げなもしくは沈鬱な表情を浮かべる主人公たちは、分かり合うことが一筋縄ではないということをどこか暗示しているのかなとも思った。

いずれにせよケン・ローチは主張がはっきりしている監督さんなので、見やすい。自分の考えと合わないところは合わないところで、「まあ合わないよね」て納得できるし、その部分を無理して合わせないといけない気にさせられることもない。そして彼の描くイギリスが、私の思うイギリスのイメージにかなり近いのも惹かれる理由だと思う。

イギリスにいた時も、スーツをぱりっと着こなしてシティで働くようなビジネスマンよりも、かつかつの生活しているホストファミリーとかに目が行く私でした。自分がそっちの階級に近いからかもしれないな。