ありえないコードで弾いています

日々の暮らしのエッセイだったりそうでなかったり

ロマンティックが止まらない

高校時代、新聞のコラム欄を読むのが好きだった。天声人語とかそういう。

コラム欄は新聞記者の中で最も優秀で経験も豊富なプロ中のプロが書いていると聞いていたし、コラムの最初や最後にさりげなく挿入される俳句や漢語の古典の一節などが教養のカタマリ!という感じで、読んでいてわくわくした。

これを書いている人は和漢洋の書物に通じていて、ユリシーズでも論語でも方丈記でも、あそこの章のあの一節さぁ、と言われればあぁあれね!と即座に反応できる超インテリのインテリなのに違いないと思っていた。
その頃はそういう人に無邪気な憧れがあって、好きなタイプもすごく年上の男性だったりした。

長じて社会に出、新聞社に勤める知り合いなんかも出来てくると、新聞記者も所詮はサラリーマンであり自分と地続きの人間だということが分かり、その頃になれば社会人の大変さも分かるから、記者がサラリーマンだったとしたって幻滅まではしないんだけど、とりあえず私の心の中のインテリで素敵なおじさま(アスコットタイ着用)は姿を消してしまった。

今は、俳句などが引かれてあっても、たぶんこういうのシチュエーション別でデータベース化してんだろうなとしか思わなくて(実際のところはいまだに分からないのにも関わらず)、少女時代の夢が潰えるのは寂しいものだと思う。

20代の頃、かなり年上の男性がある会場で講義をしていて、私はアシスタントをしていたのだが、その部屋の窓の向こうが強風で、街路樹から木の葉がちぎれて飛ばされていくのが次から次へと見えていた。

彼はまるで僕の人生みたいに荒れ狂ってますねと笑いながらつぶやいて、突然こんな詩を口ずさんだ。

げに我はうらぶれて/ここかしこ定めなく/飛び散らふ落ち葉かな。秋の日の/ヴィオロンの・・・

その後、いろいろあってその人とお付き合いすることになった。
その人からいろんなことを学んだし、私には追い付けないくらい大人で博識な人だと尊敬していたのだけど、そのお付き合いから私が最終的に悟ったことは、年の離れた関係は恋愛というフィールドに置かれると、どんな条件であろうと年下のほうが圧倒的に有利だということだった。年上側は苦しい。

その人は私より老いているということをいつも引け目に感じていた。
私のほうからすれば、そんなことは問題になるどころの騒ぎではなかった。
その人のほうで年齢差など黙殺してしまえば、私たちの間にそれは存在しないも同然だったのに、その人は何かと年を持ち出して自嘲した。

こんなに豊かな世界を知っている人でもそうなのかと思った。
年齢なんて若さなんて気絶しそうなくらい表層的なものに、どうしようもなく振り回されてしまうのか、と。

今、自分がその人の年齢に近づいてみると、その人の気持ちが少し分かる。
山登りみたいなものだと思う。年齢が低い方は高い方を眺めても、高いんだなと思うだけで、その落差の詳細は分からない。しかし高いほうは、年月がもたらすものを具体的に知っている。

でもやはり思うのだ。無視してしまえばよかったのに、と。
若い人の無知を最大限利用すればよかったのに。
私だったらそうする。

自分が年を取るに従って、いいことも悪いこともあるが、私よりずっとずっと教養があってずっとずっと博識でこの広い世界のことを教えてくれる、そういうオトナな人の存在が段々薄れてしまうのがすごく残念だなと思う。
自分の知識が増えるほど、世界はむしろ広がっていって、広大無辺の大地に阿呆のように立ち尽くしているよりしょうがないのかと思うことが増える。

あぁこういうこと誰かに教えてほしいな、と思うし、今どきはAIが何でも教えてくれるけど、ロマンチックが足りないよね。