ありえないコードで弾いています

日々の暮らしのエッセイだったりそうでなかったり

正しくない愛情

「ところがホープのお母さんは・・・ホープがアイスキャンデーを盗んだのを分かっていながら、バスに乗ってわざわざメサまで買い物に行くようになった。ああこれだ、とわたしは思った。わたしは自分が悪くないときに母に自分を信じてほしいだけではなかった。たとえ悪いことをしたときでも、自分に味方してほしかったのだ」(『沈黙』ルシア・ベルリン)

子供は時々、夫に怒られてベソをかきながら、私に恨みがましい目を向けることがある。いわく、私が子供と夫の間に入って、子供のほうを守ろうとしないからなのだそうだ。

私からすれば、夫の言っていることのほうに理があるし、怒られても仕方ないことをしているのは子供なので、夫の肩を持たないまでも、子供をかばおうという気にはならない。

でも、子供のその言葉には、はっと胸を突かれるものがある。

夫の言い分に理があるのは大人だから当たり前で、子供が叱られるようなことをしてしまうのも子供だから仕方ない。私の対応は、そこのところを考慮に入れていないのかもしれない。

うちの場合、子供が里子で、実子ではないので、余計ややこしいのかもしれない。
血が繋がらないせいでそのような対応をしてしまっているのではないか、心のどこかでつめたく、この子は他人だと思う自分がそうさせているのではないかと思う気持ちが消えない。

ただ実子がいたら、もっと容赦なく厳しくしていたかもしれないとも思うが。他人の子だからまだ気を遣っているぐらいのことで。

とは言え、私には実子がいないので、何もかも想像の世界ではある。

里親という特殊な立場にいると、無償の愛という言葉にとんでもないプレッシャーを感じる。
無償の愛とは何か。血を分けた親子にしかできないのではないか。無償の愛がないと子供はまっすぐ育たないのではないか。

夫は、無償の愛なんて絵空事だよとにべもない。確かに世の中に喧伝される無償の愛の半分以上はそんな匂いがするようだ。かといって、無償の愛自体がこの世に存在しない、とも私は思わない。

知り合いのシンママさんは、子供から変なおじさんに「ここで遊ぶな」と怒られたと聞くと、憤然としておじさんに抗議しにいく。
うちの子が同じことを言ってきたらどうだろう。私は「そりゃあんたが遊んじゃいけないとこで遊んでたんでしょ」と言ってしまいそうだ。

事の真偽はわからない。が、状況がどうであったにせよ、子供のために躊躇なく他人に怒鳴り込んでいけるお母さんってなんかいいなと思うし、子供も嬉しいだろうなと思ってしまう。でも私には無理な気がしている。

私は、ごく一般的な大人の判断力で考えられる愛情しか渡せない気がする。
子供が正しくないことをした時に、それが分かっていながら他人に噛み付いていける行動力は私にはない。よしんばそうやって子供を守ったとして、その子はその後正しく育っていくのだろうか。わがまま放題の勘違い人間にならないのか。

守られたことで愛された実感を得て、その後その子がまともになることは確かに考えられる。そんな逸話もいくつか聞いたことがある気がする。
しかし、その逆の結果になることも十分想像できるではないか。

だけど子供が目に涙を溜めて私にそのことを突きつける時、私はひどく混乱してしまう。
私のしていることはつめたいのか。正しい愛情は何なのか。正しくない愛情が正しいということもあるのか。その愛情が渡せない私は人として間違っているのか。里子だからこうなるのか。子供はいつか埋められなかった愛情の隙間のせいで道を誤ることがあるだろうか。

そんな風に考えると夜眠れないことがある。

考えても仕方ないことで、もっと他の楽しいことでも考えたほうが精神的にはずっといい。
でもせめてこうやって悩み続けることが、子供への誠意であるように思っている。